古河総鎮守・雀神社のお祭りで奉納される悪戸新田の獅子舞は、
古河では「ささら」と呼ばれています。ひとりが一匹をつとめる獅子が三匹、
雄獅子二匹と雌獅子一匹。関東から東北にかけて広く伝わる形の獅子舞です。
このページでは『古河市史(民俗編)』と保存会に残る記録をもとに、
約550年の歩みをご紹介します。
※内容はこども達が読みやすい様に編集しています。
三匹獅子舞は地域によって姿が様々ですが、どこでも共通しているのは、 獅子頭をかぶり、おなかに太鼓をつけた三匹の獅子が、笛のお囃子に合わせて舞うことです。 地域によっては、そこに花笠をかぶった人、さらに天狗や山伏すがたの先導役、 道を清める役、ひょうきんな役まわりの道化などが加わり、 大きな傘や幟、万燈がいっしょに歩きます。
関東では秋におこなう地域が多いのですが、夏におこなう地域のほうが
悪い病気をはらう・雨をこうという、もともとの願いがはっきり残っているといわれます。
古河の悪戸新田獅子舞(ささら)は、もともと夏の雀神社例大祭の最終日に行われていましたが、例大祭が9月末に変更になり、秋の巡行となりました。
ところで、獅子舞そのものを「ささら」と呼ぶのは、埼玉県を中心に、 茨城県の東北部・栃木県・福島県・秋田県などにかぎられます。 ささらとは、もともと竹を細かく割って束ねた楽器の名前です。 三匹獅子舞では花笠や道化、先導役がこの「スリザサラ」をこすって鳴らす場面があります。 ところが関東で獅子舞を「ささら」と呼ぶ地域では、楽器のささらはほとんど使われません。 昔はささらを鳴らしていたそのなごりで、 いつしか獅子舞そのものを「ささら」と呼ぶようになったのではないか、と考えられています。
悪戸新田は、古河の船渡町の西どなりにあった地域です。 いまの渡良瀬川の河川敷、ゴルフ場のあたりといえば、思いうかべやすいかもしれません。 川のすぐそばで、たびたび水害にもみまわれる土地でしたが、人びとはここで暮らし、 村の氏神として第六天神社をまつっていました。
明治の終わりから、渡良瀬川の流れを整える大きな改修工事がおこなわれました。 この工事で、悪戸新田の大部分は河川敷となり、村の土地の多くが失われました。 第六天神社も雀神社の境内へうつされ、いまは「第六天宮」としてまつられています(くわしくは、このページの「悪戸新田の氏神 ── 第六天」で)。
明治のころ、お祭りの朝に東西南北へ向かって舞う「四方固メ」は、村の四すみでおこなわれていました。 東は船渡町との境、西は旧三国橋のたもと、南は悪戸の土手、北は第六天神社の北側。 この四か所にかこまれたあたりが、悪戸新田でした。
村の土地は川になっても、ささらは「悪戸新田獅子舞」の名で受けつがれてきました。 いまも保存会には、悪戸新田の出身者やその子孫、縁のある家の人たちが、古河市とその近くから集まっています。
雀神社に残る古い記録に、ささらのはじまりが書かれています。
一、由来当社ノ記録二依レバ今ヨリ約四百八十年前当町内二悪疫流行ノ際 古河公方足利成氏獅子ヲ奉納シ字弐丁目ノ子供ヲシテ被ラシメ戸毎二祓ハシメタリト云フ 以来祭礼ノ節用キルヲ恒例トナシ悪戸新田二伝ハレリ(後略) ── 雀神社記録
今からおよそ550年前、この町でおそろしい流行の病がひろがったとき、 このあたりを治めていた古河公方・足利成氏が獅子を神社におさめました。 その獅子を二丁目の子どもにかぶらせ、家を一けんずつまわって悪いものをはらわせた、と伝わります。 それからは、お祭りのたびに舞うのが決まりとなり、悪戸新田に受けつがれてきました。
では、なぜ悪戸新田の人たちが舞うようになったのでしょうか。言い伝えは二つあります。 ひとつは、成氏がおもちゃにしていた雄獅子をまず二丁目にゆずったものの、 二丁目は商人の町でみな忙しかったため、かわりに悪戸新田にゆずられたという話。 もうひとつは、雀神社のとなりにあって縁の深かった二丁目が今の場所へ移るとき、 二丁目のうち二十件ほどが悪戸新田に移り住んだ、そのつながりだという話です。
悪戸新田はたびたび水害にあった土地なので、古い記録はほとんど残っていません。 ただ、太鼓の胴の内側に1801年(享和元年)に修理をしたことが書きこまれていて、 少なくともそのころには今と同じ道具がそろっていたことがわかります。
ささらは雀神社のお祭りで奉納される舞ですが、 悪戸新田という村そのものの氏神(その土地をまもる神さま)は、 第六天神社でした。
第六天は、もとは仏教の神さまでした。戦国時代には、 織田信長が自分のことを「第六天魔王」と名のった話でも知られています。 それが江戸時代になると、日本の神話に出てくる六番目の神さま 面足尊・惶根尊という夫婦の神さまと結びつき、 国づくり・五穀豊穣・夫婦円満をねがう、 暮らしに近い神さまとして親しまれるようになりました。関東、とくに武蔵・相模には数多くまつられていたことがわかっています。
『古河市史』によると、明治時代まで、お祭りの朝に東西南北へ向かって舞う 「四方固メ」の北の地点は「第六天神社の北側」でした。 ささらは、村の氏神のところから四方をかため始めていたのです。
その第六天神社は、明治末期、この一帯が河川敷になったのにともない、 雀神社の境内社として合祀・遷座されました。 いま雀神社の境内にまつられている「第六天宮」が、そのお社です。 村の土地は川となり、氏神は雀神社のなかへ。 それでも人びとは第六天への信仰を手ばなしませんでした。
保存会はいまも、年に二回(三月二十四日・九月二十四日)第六天神の 「お日待」をおこなっています。第六天神をまつる獅子堂に集まり、 雀神社の宮司さんに祝詞をあげてもらいます。
雀神社に舞を捧げながら、その根には、悪戸新田の人びとが代々まもってきた第六天への信仰がある。 ささらは、二つの社に支えられているといえます。
もっとくわしく第六天のこと仏教の神さまだったころから、悪戸新田の氏神、雀神社の第六天宮、いまも続くお日待まで
江戸時代の終わりごろの話として、こんなことが伝わっています。 二丁目にあったお仮屋の前の通りには、 通り一面にりっぱな畳(琉球畳)が敷きつめられ、 殿さまの家来たちがひれふすなかで、ささらを舞いました。 舞いおわるとすぐに飛脚が走り、江戸にいる殿さまへ「無事にすみました」と知らせたそうです。
また当時は、ささらの行列の前を横切ってしまうと、 その場で切られても文句が言えない(切捨御免)とされていました。 それほどまでに、ささらの行列は重んじられていたのです。 悪い病気をはらう神聖な力への畏れが、町のきまりを支えるほどの重みをもっていた、ということでしょう。
550年のあいだ、ささらは何度も途切れそうになりました。そのたびに町の人びとが「もう一度」と声をあげ、今日まで続いています。
町に悪い病気がひろがり、古河公方・足利成氏が獅子を奉納。二丁目の子どもにかぶらせ、家ごとにはらわせたと伝わる。以後、お祭りの決まりごととなり、悪戸新田へ受けつがれる。
太鼓の胴の内側に、修理をした記録が書きこまれる。古河の氏子や悪戸新田の世話人たちの手による。
田町と悪戸新田のあいだで費用の分担がまとまらず、洪水も重なって3年間おやすみ。
町長・河副亀次の仲立ちで、町の15か町と悪戸新田とのあいだに「契約書」が結ばれる。毎年おこなうこと、お弁当代や道具の修理代を町が助けることが決められた。
悪戸新田の一帯が河川敷となり、村の氏神だった第六天神社は、雀神社の境内社として合祀・遷座された。
明治41年の「郷友会雑誌」に「ささらは廃せられ」とある。大正時代は渡良瀬川の工事もあり、練習は細々と続いたものの、お祭りでは舞われなかった。
前の年に古河で腸チフスが流行したことをきっかけに、「ささらを復活させよう」という声が町じゅうから上がる。島崎彦太郎・稲川直吉・土信田耕三の三人が中心となって走りまわり、25、6人が参加、町内や個人から約290円の寄附を集めて約25年ぶりに復活。この年「悪戸新田獅子舞保存会」ができた。
戦争が終わった直後、人手も費用も足りず3年間おやすみ。
雀神社の世話人たちの会議で「由緒あるこの獅子舞を絶やさぬよう、残していく方法を考えよう」と決まり、復活。この年は獅子を子どもにかぶらせ、笛を吹きながら神輿の道すじに従って歩いた。
いったん中止となった翌年、町の人たちの願いを受けて再開。
獅子頭三頭が、古河市の有形民俗文化財に指定される。
人も費用も足りず、担い手のあいだで中止が決まる。「せめて悪戸新田のささらの名だけは残そう」と127万円あまりの寄附を集め、獅子頭や太鼓を新しくし、獅子堂と記念碑を建てた。ところがその準備を進めるうちに、担い手たちのやる気がよみがえり、中止をまぬがれた。
「悪戸新田獅子舞」として、古河市の無形民俗文化財に指定される。
世界的な感染症のため、3年間おやすみ。
関係者の熱意で奉納が再開。いまも毎年、町を巡っています。
獅子をかぶるのは、もともと悪戸新田の長男にかぎられていました。 昭和に入ってからは生まれた順は問わなくなり、子どもが少なくなるにつれて 「お父さんかお母さんのどちらかが悪戸新田の家すじであればよい」とされるようになりました。 いまは小学生のなかから9人が選ばれます。
保存会ができたのは昭和2年。悪戸新田の出身者やその子孫、 結婚でつながった家の人たちが、古河市とその近くから集まっています。 獅子を経験していないけれど笛を吹きたい人、子どものころ獅子をかぶって大人になってから戻ってきた人、 わが子の参加につきそって入った人。入り方はさまざまです。
次の年の準備は、お祭りが終わったその直後から始まります。 責任者と会計の数人が、衣装や道具の修理・買いかえの見積もりをつくり、 次に獅子をつとめる子どもの家をたずねてお願いにまわります。 三月から四月ごろ、雀神社の氏子総代(町内を代表して神社を支える人たち)の会議のあと、 総代から保存会へ「今年もお願いします」と依頼があり、保存会は話し合ってお引き受けします。 六月ごろからは打ち合わせを重ねます。
踊りの練習はお祭りの1か月前から。まずは新しく入った子だけを、個別に教えます。 笛吹きも、自分の家等で練習します。 みんなでそろって練習するのは、奉納の一週間ほど前から二日前まで、毎晩。 いまは雀神社の社務所を使わせてもらっています。
巡行はお祭りの最終日。獅子舞会所を出発して、まず「四方固メ」から始まります。 四方固メとは、悪い病気を追いはらうために、東西南北へ向かって一回ずつ舞うことです。 その場所は時代とともに移ってきました。明治までは悪戸新田の四すみ (東は船渡町との境、西は旧三国橋のたもと、南は悪戸の土手、北は第六天神社の北側)。 昭和2年から43年までは船渡町の土手、昭和44年からは雀神社の広場、いまは鳥居の前でおこなっています。
四方固メを終えると各町内をまわります。 まわる町内は、戦前は18か町と決まっていましたが、戦後は当番の町と依頼のあった町をあわせて 約30か町にもなります。朝5時に始まり、会所へ戻るのは夕方6時半すぎ(昔は夜9時ごろ)。 第六天神宮前でもう一度舞い、三本〆(みんなで手を打って締めくくること)をして解散します。
お祭りの翌日は会員が集まり、道具の片づけとねぎらいの会を開きます。 この会を「御大義振舞い」と呼んでいます。
笛と太鼓は、三つの部分でできています。町から町へ移るときの前奏 「渡り節」にはじまり、 はじめの踊り「雌獅子さがし」、 そして最後の「らいらい」。 舞う子どもたちは3人1組で、年上の順にイ組・ロ組・ハ組の三交代。 自分で太鼓をたたきながら踊ります。
巡行の行列は、いま、次の順番で進んでいます。
行列が通る道を清めながら、いちばん前を歩きます。紺の法被に股引、草鞋と笠。 金棒を鳴らしながら進みます。人を出す自治会と、出さない自治会があります。
その町の氏子総代や役員がつとめ、行列を次の町内まで案内します。 町内おそろいの浴衣に羽織すがた。
行列全体を案内する役。保存会の会長と副会長がつとめます。
お囃子をつとめます。笛は竹でできた横笛。 四角い箱の形をした花笠をかぶり、笠にはぼたんの造花、まわりには赤い布が垂れています。二交代でつとめます。
次の町内で舞う子ども3人と、そのつきそい。 獅子頭をかぶり、おなかに太鼓をつけています。 獅子頭は桐でできています。 雄獅子は黒くぬられ、まっすぐな角と、頭の上に金の宝珠「星の玉」。 雌獅子は赤くぬられ、角がなく、雄より少し小ぶりです。 かぶると頭から腰まで羽が垂れ、下あごからは赤い布が下がって、その布ごしに外が見えます。 両手にバチを持ち、おなかには杉をくりぬいてつくった太鼓をつけます。
出番を終えた組と、これから順番がまわってくる組の子どもたち、そのつきそい。 舞手は3人1組で、年上の順にイ組・ロ組・ハ組の三交代。 町内での奉納がすむと道ばたで獅子と太鼓をつけかえ、 次に舞う組が獅子をつけて前へまわります。
当番の町の氏子総代がつとめ、万燈をとりしきります。
四角い枠に紙をはった、箱の形をした大きな灯籠です。 「天下泰平」「国土安穏」の文字が入り、 上には白い紙垂が下がります。 雀神社への奉納のあと、鳶の人たちが荷車に乗せて引き、行列のいちばんうしろに続きます。
獅子頭からふさふさと垂れている羽は、軍鶏という鶏の、おすの尾羽です。 一羽からたった二本しか取れないとても貴重な羽で、三体ぶんをそろえるのは、いつの時代も大変なことでした。 それでも先人たちは工面し、つくり直しながら、いまの獅子頭を伝えてきました。
万燈とは、もともと「数かぎりない灯火」という意味の言葉です。 たくさんの灯籠に灯りをともして神仏にささげる 「万灯会」という法会に由来し、 そこから、お祭りで立てるこの箱形の灯籠そのものを「万燈」と呼ぶようになりました。 四角い枠に紙をはり、神社の名前や願いごとを書き入れ、 中に灯りをともして担いだり飾ったりするのが、本来のすがたです。 ささらの万燈にある「天下泰平・国土安穏」も、世の中がおだやかでありますようにという願いのことばです。
『古河市史』に記された昭和のころの行列には、このほかに 獅子世話役(獅子の交代の合図と世話)、 笛吹世話役、 鍵持(休憩のとき、笛吹きの花笠をかけておく鉄の棒を持つ役)、 記録係(どの町を何時に通ったかを記録する役)、 整理係といった役がありました。 また、獅子が笛吹きより前を歩いていました。
いまの形になったのは、段取りをすっきりさせたことと、担い手が少なくなったことが 理由ではないかと考えられます。役の数はへっても、 道を清め、笛を吹き、獅子が舞い、万燈が続くという行列の骨組みは変わっていません。
巡行の日は、たいていお父さんがつきそいます。 太鼓や獅子をつけかえたり、草鞋をはかせたり。 そのために、親も練習のころから太鼓や獅子のしばり方を覚えます。 朝5時から夜6時すぎまで、20キロをこえる道のりを子どもといっしょに歩き、 団扇で扇いだり、ときにはよその子の世話もします。 この一日をともに過ごすなかで、ふだんは味わえない親子のきずなが生まれていきます。
明治のときも、昭和のときも、ささらがよみがえったきっかけは、 担い手よりもむしろ町の人びとの声でした。「またやってほしい」とまちが望み、親と子がこたえる。 悪戸新田獅子舞は、その長い歴史と、重みを保ちながらも時代に合わせて形を変えて、これからも受けつがれていきます。