ささらのふるさと・悪戸新田には、むかしから村をまもる神さま、第六天がまつられてきました。
第六天とは、どんな神さまなのでしょう。どこから来て、いまはどこにいらっしゃるのでしょう。
仏教の神さまだったころから、悪戸新田の氏神となり、雀神社へうつって、いまも続くおまつりまで。順を追ってご紹介します。
ひとことでいうと
「第六天」は、もとは仏教のことばです。仏教では、わたしたちの住む世界の上に、いくつもの「天」(神さまたちの住む世界)が重なっていると考えました。
そのうち、まだ「ほしい」「楽しみたい」という気もち(欲)が残っている世界を「欲界」といい、欲界には六つの天があります。そのいちばん上、六番目の天が「他化自在天」。これが「第六天」です。
他化自在天は、「ほかの者がつくり出した楽しみを、思いのままに自分の楽しみにできる天」だといわれます。そこに住む王が「第六天魔王」で、お釈迦さまが悟りをひらこうとしたとき、それをじゃましようとした、という話が伝わっています。
こわい名前ですが、それだけ強い力をもつ、ということでもあります。平安時代から室町時代にかけて、第六天は密教や修験道のなかで、仏教をまもる神さまとしても信じられるようになりました。鎌倉時代の『沙石集』など、古い書物にも登場します。
第六天魔王の名を広く知らしめたのが、戦国時代の織田信長です。キリスト教を伝えに来た宣教師ルイス・フロイスの手紙によると、武田信玄が手紙に「天台座主沙門信玄」(仏教の高いお坊さん、という意味)と書いてきたのに対し、信長は「第六天魔王信長」と書いて返した、といいます。ただし、この話はフロイスの手紙にしか出てこないため、ほんとうにそう名のったかどうかは、はっきりしていません。
江戸時代になると、第六天は関東の村々で、田畑や暮らしをまもる身近な神さまとして、さかんにまつられるようになります。
江戸時代の終わりごろには、日本の古い書物を研究する「国学」がひろまり、第六天を日本の神話の神さまと重ねる考えが出てきました。目をつけられたのが、『古事記』『日本書紀』のはじめに出てくる「神世七代」の六代目の神さまです。
六代目は、面足尊と惶根尊という夫婦の神さま。「六番目どうし」ということで、第六天と結びつけられたのです。名前には「(大地の)おもてが、すっかりととのった」「ああ、おそれ多い」という意味がこめられている、と考えられています。
そして明治元年(1868)、政府が神さまと仏さまを分けてまつるよう命じた「神仏分離」で、仏教の魔王の名をもつ第六天は、そのままではいられなくなりました。多くの第六天社が、おまつりする神さまを面足尊・惶根尊にあらため、なかには名前ごと変えた神社もあります(たとえば東京・墨田区押上の高木神社は、もとは第六天社でした)。
国づくりの神、五穀豊穣(作物がよく実ること)や夫婦円満の神として、また、強い力で悪いものを追いはらう神さまとして、第六天は人びとに親しまれてきました。
第六天をまつる社は、関東、とくにむかしの武蔵国(いまの東京都・埼玉県と神奈川県の一部)に集まっています。江戸時代から明治のはじめにまとめられた地誌(その土地の記録)には、つぎのような数の第六天社が記されています。
西日本には、ほとんど見られません。なぜ関東に多いのかは、はっきりわかっていません。「信長をおそれた豊臣秀吉が、西日本の第六天をなくした」「織田に敗れた武田家の人びとが広めた」「小田原の北条家の家臣たちが、うつり住んだ先で広めた」など、いくつかの説があります。
古河は下総国ですが、悪戸新田は渡良瀬川をはさんで下野国・武蔵国と向かいあう、三つの国のさかいにありました。明治11年(1878)には、悪戸新田と下野国の下宮村、武蔵国の川辺村を結ぶ舟橋がかけられ、「三国橋」とよばれました。第六天のふるさと・武蔵国は、まさに川の向こうだったのです。
悪戸新田は、古河の船渡町の西どなり、いまの渡良瀬川の河川敷、ゴルフ場のあたりにあった村です。村の氏神(その土地をまもる神さま)が、第六天神社でした。
略図を見ると、古河の町から三国橋へ向かう道の両がわに家がならび、道ぞいには柳の並木。第六天社は、その道の北がわ、田畑のなかにまつられていました。道から北へまっすぐのびる参道の左がわには石碑がならび、境内の右がわには地蔵尊がまつられていました。
ささらの朝は、悪い病気を追いはらうために東西南北へ舞う「四方固メ」からはじまります。『古河市史』によると、明治のころの四か所は、東は船渡町との境、西は旧三国橋のたもと、南は悪戸の土手、そして北は第六天神社の北がわでした。ささらは、村の氏神のもとから四方をかためていたのです。
明治の終わり、渡良瀬川の流れを整える大きな改修工事がはじまりました。この工事で、悪戸新田の大部分は河川敷となり、舟橋の三国橋もその役目を終えました。それでも「三国橋」の名前は、いまも渡良瀬川にかかる橋に受けつがれ、国道354号の古河バイパスには「新三国橋」もかかっています。
村の氏神だった第六天神社は、雀神社の境内社として合祀・遷座されました。合祀とは、ほかの神社にいっしょにおまつりすること。遷座とは、神さまのお住まいをうつすことです。村の土地は川になっても、人びとは第六天への信仰を手ばなしませんでした。
いま第六天神は、雀神社の境内にある獅子堂にまつられています。この獅子堂が「第六天宮」です。獅子堂は昭和44年(1969)、ささらを残そうと、市や町の人びとから集めた127万円あまりの寄附で建てられました。獅子頭や太鼓など、ささらの道具もここにおさめられています。
保存会はいまも、年に二回、三月二十四日と九月二十四日に、第六天神の「お日待」をおこなっています。
お日待とは、もとは前の晩から身を清めて集まり、夜明けの日の出を待って神さまをおまつりする行事です。いまでは、会員が獅子堂に集まり、雀神社の宮司さんに祝詞をあげてもらったあと、ささらの「宿」となる会員の家で、いっしょに食事をします。
宿には、大正九年(1920)に雀神社の加茂常堅宮司が書いた「第六天神」の掛け軸がかけられます。お日待は大正時代から有志によっておこなわれ、保存会ができてからは、会員が中心になって続けてきました。
ささらは雀神社のお祭りに奉納される舞ですが、その根には、悪戸新田の人びとが代々まもってきた第六天への信仰があります。ささらの一日をたどると、そのことがよくわかります。
東西南北へ舞い、悪い病気を追いはらいます。明治のころ、北の地点は第六天神社の北がわでした。
約30か町をまわって舞を奉納します。朝5時から、夕方までの長い道のりです。
雀神社へもどり、第六天宮(獅子堂)の前でもう一度舞って、締めくくります。
ささらは、雀神社と第六天、二つの社に支えられているのです。
仏教、とくに密教や修験道のなかで、第六天が信じられる。
織田信長が「第六天魔王」と名のったと、宣教師フロイスの手紙に書かれる。
関東の村々に第六天がひろまる。武蔵国だけで320あまりの社が記録される。
国学のひろまりとともに、日本の神話の面足尊・惶根尊と重ねられていく。
神仏分離。多くの第六天社が、まつる神さまや名前をあらためる。
悪戸新田と下野国・武蔵国を結ぶ舟橋「三国橋」がかけられる。
悪戸新田の道の北がわ、田畑のなかに第六天社がまつられている(略図より)。
渡良瀬川の改修で村の大部分が河川敷に。第六天神社は雀神社の境内社として合祀・遷座される。
雀神社の加茂常堅宮司が「第六天神」の掛け軸を書く。このころ、有志によるお日待もおこなわれていた。
寄附を集めて獅子堂(第六天宮)と記念碑を建てる。
年に二回(3月24日・9月24日)のお日待。巡行の一日は、第六天宮の前で舞い納める。
※第六天の由来や、関東に多い理由には、いくつもの説があります。このページでは、おもな説をわかりやすくご紹介しています。